増沢諒【政治は面白い!】

選挙ドットコム編集長/食べ物付き雑誌「食べる政治」代表。政治のわくわく感を伝えられたら嬉しいです。

なぜ、日本の若者は勉強しなくなったのか ①

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過去の2つのエントリーでは、

・日本の大学教育が持つシステムとしての矛盾(というかカラクリ)

・いまの子どもの「学ぶ姿勢」はこれまでと大きく違う

 

について説明してきました。

このエントリーでは、

【ではなぜ、最近の学生は勉強しなくなったのか】

について説明したいと思います。

その理由としては、例えば、

  ・全入時代になった

  ・「ゆとり教育」へ制度の変更

  ・良い大学に行っても安定した企業に勤められなくなった

等の説明もあります。

今回は、

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

を参考に説明していきたいと思います。

この本のすごいところは、「下流志向」というタイトルのため、格差社会が生まれてきている理由を説明している本かと思いきや、

「学びの姿勢」についてかなりダイナミックに説明しているところにあります。

 

そもそも、この本が書かれたの2008年のことで、時代としては、福田内閣から麻生内閣へと変わる時期です。

2006年までの小泉政権のアウトプットが一部時差を持って見えてきた時期であり、「各社社会」という言葉が2006年半ばに誕生し、ある程度認知された時期です。

 

「下流社会」

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

が出版されたのが2005年、この本は、「下流社会とはなんぞや」を説明する本としてヒットしましたが、

2008年の「下流志向」では、さらに二、三歩踏み込み、「なぜ下流社会になってきているのか」について、説明している本です。

 

 

内田樹は端的に言って、学びの姿勢の変化を、

【教育を市場原理で捉える、という間違い】が起こっているからで、

それは、

【子どもが早い段階から自らを消費主体として位置づける】ことに慣れてしまっているからである、と説明しています。

 


■教育を市場原理で捉える、という間違い

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まず①の【教育を市場原理で捉える、という間違い】について説明していきます。

これは、教育を語る上でよく陥りがちなのですが、

僕たちが教育に期待するものは、

時間と授業料という投資の結果として、知識や資格、社会的信用…だと思います。

 

それはそうでしょう、日本の私立大学なんて授業料で年100万、ひとり暮らしなんてさせればプラスで年間100万以上かかります。

時間だって、大学生活だけ見ても4年間。

親も子どもも、卒業時点でいくら分の価値を得られるか、と考えるのも自然なことです。

 

日常生活で僕たちを取り巻く環境はもちろん資本主義ですので、基本的にはお金を払うことで、同程度の価値を得ている、わけですから、教育についても同じように考えることは至って自然です。

 

市場原理、は端的に言えば、「等価交換」です。

媒体として紙幣が存在しても、自分が払う120円とコーラが等価(あるいは、喉が渇いた状態では自分としては120円以上に思える)であることは変わりません。

ここで重要なのは、

消費主体である私(=120円を払う人)は、「コーラを買う前と買う後では、何も変化していない」ということです。

これは市場原理で決まっている一種のルールです。

消費主体である私が変化してしまうと、等価交換の価値観も代わり、たちまち交換レートも代わり、交換が行われなくなってしまうのです。

そのため、市場原理的に、

  ・交換が始められて終わるまでの間に変化は存在しない

 

という原則があります。

変化が存在しない、ということは、「時間という概念が無い」と言い換えても構いません。これは、実際には商品の交換には時間がかかることがあるからです。

コンビニではお金を払えばその場で商品を得られますが、通販ではラグがあります。

しかし、お金を振り込んだタイミングと、商品が手元に届くタイミングでは、その互いの価値は変わらない、という原則があります。そうでないと、その場での物々交換しか行えなくなってしまいます。

実際には時間は存在しますが、概念として、「時間が存在しない」とされています。

この原則が、さっそく「学び」には当てはまりません

「学び」を商品とすると、学ぶことで、「消費主体」である「私」が変化してしまうからです。

最初は何を学んでいるのか、何がどう役に立つのか分からない、しかし学んでいく途中でその意味が徐々に分かり始める、というとても変わったプロセスです。

 そもそも、市場原理で考えるのであれば、「学び」は学ぶ前にその「価値が全て分かっている」状態でなければなりません。

 

しかし実際には「小学校で学ぶ歴史」がどの程度・どう役に立つのかは誰にも分かりません。とくに学んでいる主体である子どもにとっては、全く分からないでしょう。学び終わった僕たち大人であってもその価値の評価はいかんともしがたいと思います。

大学の教育も同じです。何がどう役に立つのか、これは本当に評価が難しいです。

そのため、投資&回収と考えると、たちまち混乱していまいます。

「学び」を市場原理として捉えることは、やはり間違っていると言えると思います。

 

以上、

①【教育を市場原理で捉える、という間違い】について説明してきました。

ではなぜ、そのような間違いが起こっているのか、については次のエントリーにて説明しようと思います。

 


■「学び」を理解しようとすることの難しさ

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最後に、「学び」の価値を数値的に考えることの難しさについて書きたいと思います。

例えば、TOEICの点数で学びの成果を測ることはできますが、これは教育のアウトカムのほんの一部にしかすぎません。

おそらく学びの中で身に付ける最も大切であろう「コミュニケーション能力」や「問題解決能力」は数値化できません。見識や判断力や感受性等もどんな風に、いつ、どうやって身に付いたのか分かりません。

「学び」を数値化するのは、ほぼ不可能だと言えます。

さらに言うなら、学ぶ前から「これを学んで何になるのか?」と考える時点でもし答えが出てしまうのであれば、それは「学ぶ」という行為と矛盾しているように思えます。

 

ソクラテスは著書「メノン」の中で「問題のパラドクス」というものを語っています。

  解き方がまるで分からないものは、そもそも「問題」として認識されない

  しかし、解き方が分かるものは、その時点ですでに問題ではなくなっている。